大畠会長が執筆した、記事(9頁)を読まれた高女五期・和気(旧姓中村)恭子さんから電話をいただきました。故北村先生と親しかった、高女三期の梶田美智子さんが、会報が到着した日に他界されたとのお話しでした。
北村先生と高女東京組とのお付き合いを旧職・高女三期の武田昌恵さん(仙台在住)が、お手紙で知らせてくださいました。心に響く内容です。
五月二日、尚和会の会報が届きました。
年一回の会報は、母校の様子にふれて、大阪を放れて六十余年の私にとって、大変なつかしい待ち遠しく思っているのでございます。
震災から一年、やっと落着きを取りもどした今年の会報は、心にじんと沁みる物がございました。
"お便りから"の頁に、高女三期の梶田美智子様の"在京三期一同連絡を取り会えて元気です"ありましたのに、会報の着いた夜、御子息様から連絡があり、当日亡くなっておられるのが判りました。
彼女は私共高女三期の東京組のお世話を全部引き受けておられ、会報にありました、北村敏子先生も彼女のお世話で、私共の同期会には北村先生をお招きして、すばらしい食事会等何度か開きました。御高齢の先生を車で御送迎し梶田様宅での食事会。ニューオータニでの大阪、東京合同の同期会にもご出席いただき、昔話に花を咲かせ、梶田家のお庭で写真をとったり、すばらしい時間を過ごしました。
先生からはお手製の"針山"や"しほり"等それぞれに戴き、今も大事に使わせて頂いております。
くしくも会報の着いた日に美智子さんが亡くなり、先生のご逝去を知ることとなり、人の世の不思議をしみじみ考えさせられることになりました。
私共、三期生は、北村先生とは担任もして、博物の授業も受けました。凜として、気品のある先生でございました。工場動員、卒業、進学、挺身隊とバラバラとなって消息のわからぬまま、終戦となり、先生が満州からお引き揚げになられた等、始めて知りました。御苦労もあったことと思いますが、今、尚、歳を重ねられても、かくしゃくとして、気品のあるお姿でいらっしゃいました。
先生のご逝去と、美智子さんの突然の訃報とで混乱しておりましたが、五月二日は、忘れることの出来ない日になってしまいました。
素晴らしい先生と友達を持った豊女卒業したことを誇りとして、今后の余生を生きたいと思っております。
これから先も年一回の会報を楽しみに待っております。
かしこ
以上です。北村敏子先生と梶田美智子さんの冥福を心よりお祈りいたします。
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梶田美智子の長男行雄と申します。大畠会長からのお悔やみのお手紙を頂戴
して、このサイトに母の事が掲載されていることを知りました。これまで豊高女
の同窓会の皆様方より母に頂いたご交誼に感謝しつつ、一言ご挨拶させてください。
母は大阪で生まれ、豊中で育ったことをとても誇りにしていました。終戦直後に
祖父の仕事の関係で上京して昭和24年に東京で結婚しましたが、私たち3人の子供
は幼いころから大阪時代の話をたくさん聞いて育ちました。特に未だ戦争には至ら
ない豊高女時代の思春期の思い出を楽しそうに語っていました。今回も訃報に
対して本当にたくさんの関係の方々よりお手紙などを頂戴して、この場をお借り
して厚く御礼申し上げます。
同窓会活動は母のもっとも好きな得意にしている分野で、お世話係として皆様方
にご連絡をしたり、また会場選びや会の盛り上げ役として賑やかに嬉々として
振舞っていたことと思います。特に同期の仙台の武田昌江さんや東京の富川愛子
さんとは親しくさせていただき、入院している時もお見舞いにいらして下さったり
励ましのお手紙を頂戴したりしてもう一度会に参加したいとリハビリに励んでいた
姿が瞼に焼きついて離れません。
11月18日の東京支部総会のご盛会と尚和会の皆様の絆が今後も強固であることを
心よりお祈り申し上げます。ありがとうございました。